紅葉八幡宮は1482年(文明14年)筑前の国橋本村に御創建されました。 江戸時代に入り、福岡藩三代藩主黒田光之侯により西新の地(百道松原)に遷宮されます。正面大鳥居には梶井宮親王宸筆の黄金の額が奉納され、西新の町々が門前町として発展していきます。
歴代藩主の崇敬も篤く福岡藩・黒田家の守護神として多いに賑わい、福岡に一朝事ある時にはまず当宮に参拝祈祷されることが慣例となっていました。
紅葉八幡宮は、その名の通り境内にモミジの木が多く、秋には真っ赤に色づき、訪れる人の目を楽しませてくれます。
「令和」の引用元の万葉集の歌が詠まれたとされる福岡県太宰府市の大宰府政庁跡にある坂本八幡宮。
大伴旅人が730年(天平2年)正月13日に自宅で役人らを招き、梅の花を題材にした歌会「梅花の宴」を開きました。そこで詠まれた三十二首の「梅花の歌三十二首序文」にある、次の文です。
初春の令月にして(しょしゅんのれいげつにして)、
気淑く風和ぎ(きよくかぜやわらぎ)、
梅は鏡前の粉を披き(うめはきょうぜんのこをひらき)、
蘭は珮後の香を薫ず(らんははいごのこうをくんず)。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで戦功を上げた黒田長政は、徳川家康より五十二万石を与えられ、豊前国中津から筑前国(福岡)に移り、 福岡藩初代藩主になります。長政は初め名島城に入りましたが、現舞鶴公園付近を中心に、 1601年(慶長6年)から7年の歳月をかけて総面積80万㎡、東西1km、南北700mの全国でも有数の規模の平山型の福岡城を築城しました。
その際、名島城の資材を多く移築、利用したことは有名です。福岡城に ある「名島門」はその所以となっています。天守閣跡は現在、名島神社となっています。
祖国防衛の最前線元軍から日本を守り切ったパワースポット。1274年、元寇:文永の役においては蒙古軍が博多湾より上陸。九州の御家人たちと激戦が繰り広げられました。
「新元史」劉復亨伝に「戦於百道原」とあり、“百道”の名が登場します。鎌倉幕府は元の再度の来襲に備え、 博多湾海岸沿いに約20kmにわたる元寇防塁(石築地)を築かせ防衛体制を整えました。1281年、元は再び日本に攻め込んできましたが(弘安の役)、この元寇防塁と鎌倉武士の奮戦にはばまれ、博多の地には上陸できませんでした。
日本庭園「友泉亭」は、筑前黒田藩の【第6代藩主 継高公】の別荘として江戸時代中期に作られたものを、福岡市で初めての池泉回遊式日本庭園として 整備したものです。
「友泉亭」とは久世三位源通夏卿が「世に堪へぬ 暑さも知らず 沸き出づる 泉を友とむすぶ庵は」と詠じた歌の意から名付けられたそうです。
園内には「如水庵」と「章山庵」の2つの茶室があり、いずれも黒田氏にゆかりの名がつけられています。
櫛田神社は博多祇園山笠が奉納される神社で、飾り山笠が一年中展示されています。博多っ子からは「お櫛田さん」の愛称で親しまれている博多の総鎮守です。祭神は正殿に大幡主命(櫛田宮)・左殿に天照皇大神(大神宮)・右殿に素戔鳴尊(祇園宮)の三神で拝殿には3つの鈴が並んでいます。当社に奉納される博多祇園山笠は、博多の夏の風物詩として全国的にも有名です。
境内には「櫛田の銀杏」が葉を繁らせ、その根元には2点の蒙古碇石があります。
西暦57年に後漢の光武帝が奴国からの使者に贈ったと中国の歴史書『後漢書』に記された金印。江戸時代、博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)で農作業中に偶然発見されました。
その後、筑前藩主である黒田家に代々伝わり、1978年に福岡市に寄贈されます。金印に刻まれた「漢委奴国王」の五つ文字からは、漢の皇帝が委奴国王に与えた印であることが分かります。
そして中国の歴史書『後漢書』には、57年(建武中元2年)に、光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたことが書かれており、この「印」が志賀島で見つかった金印と考えられています。
筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられます。 御祭神は筑紫国蚊田(かだ)の里、現在の福岡県宇美町にお生まれになった応神天皇を主祭神として、神功皇后、玉依姫命がお祀りされています。
創建の時期については諸説ありますが、古録によれば、平安時代中頃の921年(延喜21年)、醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」の宸筆(しんぴつ)を下賜され、この地に壮麗な御社殿を建立し、923年(延長元年)筑前大分宮(穂波宮)より遷座したことになっております。
創建後は祈りの場として朝野を問わず篤い崇敬を集めるとともに、海外との交流の門戸として重要な役割を果たしました。
太宰府天満宮は、菅原道真公の御墓所の上にご社殿を造営し、その御神霊を永久にお祀りしている神社です。
道真公は845年(承和12)に京都で生まれ、幼少期より学問の才能を発揮され、一流の学者・政治家・文人として活躍しました。しかし、無実ながら政略により京都から大宰府に流され、903年(延喜3年)2月25日、道真公の住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えました。
その後、道真公の無実が証明され、「天満大自在天神」という神様の御位を贈られ、現在までの長い年月、道真公へのご崇敬は絶え間なく続きます。
御墓所でもある太宰府天満宮は全国約12,000社ある天神さまをお祀りする神社の総本宮と称えられ、今日でも多くの参拝者が訪れています。
幕末の女流歌人、維新の先覚者野村望東尼(のむらぼうとうに)の草庵 野村望東尼(本名は「モト」)は1806年(文化3年)9月6日、 黒田藩士浦野重右衛門勝幸の三女として、福岡城の近傍南谷の御厩後(現在の中央区六本松三丁目付近)に生まれました。
和歌に秀で、この山荘を詠んだ和歌の秀作「音もなき寛の水のしたたりもたりあまりたる谷の一つ家」があります。54歳の時、夫を喪い、博多の曹洞宗明光寺住持元亮巨導禅師によって剃髪し、向陵院招月望東禅尼となりました。